伊勢丹新宿店の青果売り場に置かれている「MIGAKI-ICHIGO(ミガキイチゴ)」という名のブランドイチゴ。
テレビ東京ではこのイチゴを作り出した農業ベンチャーの取材を2014年から続けてきました。
イチゴ産地はあれからどう変わったのでしょうか。
株式会社GRA
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宮城県南部の沿岸部にある山元町。
イチゴの産地として知られていましたが沿岸に立ち並んでいたハウスは津波で壊滅状態に。
129軒のイチゴ農家のうち廃業に追い込まれたのは125軒に及びました。
ふるさとのイチゴ生産を復活させようと震災の翌年、34歳のときに農業生産法人を立ち上げた岩佐大輝さんです。
リアルタイムでイチゴにとって最高な環境が実現できる。
栽培棟の湿度が足りなくなるとミストを自動で噴射。夜、ハウス内の温度が下がると天井のカーテンが自動で閉まります。
実は岩佐さん、震災前はIT関係の会社を経営していました。
その知識を使い徹底的に省力化されたイチゴ栽培を実現させたのです。
最先端の農法で作られたイチゴは早くから百貨店のバイヤーに高く評価されてきました。
「MIGAKI-ICHIGO(ミガキイチゴ)」と名付けられたイチゴは1粒735円で販売されるなどブランド化に成功。
固定ファンも着実に増えていきました。
色つやも香もよくておいしそうだと思った。
震災からわずか3年後には一定の成功を収めていた岩佐さん。でも、満足はしていませんでした。
この町を諦めて出ていった人がいたら、ここに来て施設を見てもらいたい。
将来に向けた可能性がたくさん、この農場にはある。
もう一度この町で働いてみたいと思う人がたくさん出てきたらうれしい。
このインタビューから7年後、再び山元町を訪ねました。
イチゴの栽培棟の中には43歳になった岩佐さんの姿がありました。この7年で何が変わったのでしょうか。
14年からかなり拡大されて飛び地にもある。
2014年当時、栽培棟の数はわずか2棟。それが今では7棟にまで増えていました。
売上高は4倍にも拡大したといいます。
こちらはGRAのオフィス棟。
10人程度だった従業員はおよそ80人に増えていました。
地元で働ける喜びはすごく感じている。
やりがいしかない。
岩佐さんは、
元々この会社は私と共同創業者の3人で始めたが今では80人ぐらいの人が働いていて、ここで生活する人が増えたことが大きな目に見える変化。
そしてこちらはGRAから車で5分ほど離れた場所。
高橋俊文さん、山元町内の農地を借り上げミガキイチゴを生産しています。
実は高橋さんはGRAの主催するミガキイチゴ就農研修の第一期生。
2年間の研修をすべて終え、2018年に独立を果たしました。
山元町での就農にこだわった。
津波で被災して壊滅的な被害を受けたイチゴの生産を復活させたかった。
高橋さんのように山元町で独立したイチゴ農家は7人に上ります。
山元町全体のイチゴの生産額は常に震災前を上回っているのです。
そしてGRAは東京・三軒茶屋にカフェもオープンしました。
ここではミガキイチゴだけでなく、規格外のイチゴも使用。
イチゴをふんだんに使ったスイーツが人気で、若者たちでいつも賑わっています。
おいしい。
甘くてとてもおいしい。
ふるさとのイチゴ生産を復活させると誓い、奮闘してきた岩佐さん。
10年を経て今どう感じているのでしょうか。
どんどん去っていくだけだった山元町にわざわざ引っ越してくれて農業始める人がたくさんできる。
この10年でやれることは全部やってきたし、当初思い描いていたことができたかなと思っている。