1972年9月29日、当時総理大臣だった田中角栄氏と中国の周恩来首相が北京で日中共同宣言に署名したときの映像。中国と正式に国交を結んでいから9月29日で50年です。現在も多くの課題が山積している両国ですが、この関係を支え続けたのは民間の力でした。今後、両国はどのような関係を築いていくべきなのでしょうか。
「民間」が支えた日中50年
中国が認めた男の信念
都内で開かれていた展示会「産業貿易センター 浜松町館」。国内から70の企業が集まりました。
これらの会社に共通しているのが…
出展企業
中国市場は非常に大きい有望な市場。
われわれのような小さいメーカーでもどんどんチャンスがある。
中国への進出を目指している企業で、そのほとんどが中国に商品を輸出した実績がない地方の中小企業です。
会場に訪れたバイヤーに向けて商品を売り込みます。
ただ、中国進出には壁が…
出展企業
宮城県に関して言えば原発事故の件があり国境を超えるのが難しい。
また中国のゼロコロナ政策による都市のロックダウンなど企業活動の継続に支障をきたすケースが後を絶ちません。
帝国データバンクの調査によると中国に進出する企業は過去10年で最も少ないといいます。
現在、逆風が吹く中国ビジネスですがこれまで両国の間では様々な歴史が…
都内に住む森田一氏(88歳)、運輸大臣の経歴を持つ元政治家です。今から50年前、外務大臣だった大平正芳氏の秘書官を務めていました。
1972年、森田氏は当時の田中角栄総理と大平大臣とともに中国を訪問しました。
森田氏は国交正常化の実務交渉を任された大平大臣が国交のない時期に活発化した民間の経済交流を高く評価していた振り返ります。
森田一さん
大平大臣の頭の中にあるのは日中国交正常化について表面に出るのは自分だが実際には自分以外の民間の人たちの努力が大きいという認識だった。
自分が関わっていない、いろいろな交渉で日中間で良いことをしていると大平大臣は評価していた。
最も大きかったのは1962年に合意した長期総合貿易に関する覚書、いわゆるLT貿易です。
合意によって日中双方に貿易事務所が設けられ、両国の貿易が本格化するきっかけとなりました。
東京・港区にあるANAの本社。芝田浩二社長です。大学時代、北京の日本大使館に務め、入社後も中国事業に携わってきました。
その芝田氏が尊敬する人物が…
ANAホールディングス
芝田浩二社長
私は常日頃、岡崎先生と呼ぶが岡崎嘉平太さん。
ANAの2代目社長、岡崎嘉平太氏。LT貿易の仕組みづくりを主導した張本人です。
岡崎氏は国交正常化を前に両国関係の改善に尽力し、当時の周恩来首相と信頼関係を築き上げました。
周首相は岡崎氏にある言葉を送ったといいます。
周恩来首相
水を飲むときは井戸を掘った人のことを忘れない。
間もなく田中総理が中国に来られ、国交が正常化するが、その井戸を掘ったのは岡崎さんです。
100回を重ねた中国への訪問。なぜ岡崎氏は中国と熱心に関わったのか。
学生時代から中国人留学生との交流を深めていた岡崎氏は戦後、中国のある軍人に次のような言葉をかけられたといいます。
恨みを捨てて仲良くしようではないか。一緒にアジアを良くしようではないか。
岡崎嘉平太氏(1987年)
日本が今、連合軍に属して列強の一つになったと威張っているが長い将来を考えるとむしろ中国、特にアジア全体、アジア全体の国、特に中国とむしろ仲良くして、アジア全体の開放をやらなければ日本の将来も安泰ではないという考えを私はずっと持ち続けた。
ANAの芝田社長は岡崎氏について…
ANAホールディングス
芝田浩二社長
人と人との絆を大切にする熱い思い、情熱はその後もずっとわれわれ後輩にしっかり受け継がれてきている。
1987年、ANAは中国路線に初就航。就航日に90歳の誕生日を迎えた岡崎氏も搭乗したといいます。
80年代は経済面で両国の交流が加速した時期で中国では改革開放路線が取られ、日本側は中国へのODA(政府開発援助)を強化しました。
その後、領土や現役総理の靖国参拝などをめぐる問題で政治面での関係は悪化したものの経済分野は拡大。両国の関係は政冷経熱と呼ばれました。
中国本土のビジネスや進出企業の増加に合わせANAグループは中国路線を拡大。新型コロナ前には11都市、378便に達し、中国便が国際線で最多となりました。
両国の貿易総額を見ると2021年時点で50年前の300倍以上となっています。
岡崎氏のDNAを受け継ぎ、日中の人的往来を支え続けたANA。習近平国家主席も岡崎氏の功績をこう称えます。
中国
習近平国家主席
2015年5月(中日友好交流大会)
岡崎嘉平太氏ら有識者は積極的に奔走し多くの活動をした。
中日友好の基盤は民間にあり、中日関係の前途は両国人民の手に握られている。